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関孝和300年忌法要紹介

2007年(平成19年)12月2日,関孝和の墓がある新宿区弁天町の浄輪寺において,関孝和三百年忌法要が営まれました。

関孝和の生年については未詳(西暦1640年頃?)なのですが, 1708年12月5日(宝永5年10月24日)に亡くなっているということは,墓石に克明に刻まれていることから間違いないといわれています。

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関孝和は,鎖国である江戸時代において世界に誇れる数々の数学的偉業を挙げて『算聖』と称されました。また,1674年(延宝2年)には和算書『発微算法』を著し,後世に確固たる『和算』の文化を築くとともに,優秀な和算家の弟子達を輩出しました。

没後の記録によると,200年後の明治40年に二百年忌の贈位奉告祭が行われ,250年後は昭和32年なのですが,翌昭和33年に二百五十年祭として行われ,この時,墓碑は東京都史跡指定を受けています。

[三百年忌法要]

そして今回の300年後は,日本数学会・日本数学史学会などが中心となって関孝和三百年祭記念事業実行委員会を発足させ,その記念事業の幕開けとして三百年忌法要を主催しました。

50年前とは異なり,浄輪寺に建立された本堂内で営まれ,日本数学教育学会,日本数学協会,日本物理学会,日本応用数理学会など多くの学協会の先生方,数学史家の方々など約80名が参列し,さらに,お墓を見学に来られた団体などを含めると,100名近くが境内に参集しました。

12月2日は薄曇りから時々晴れ間が見える天候のもと,午前11時より3名のご導師様による読経が始まりました。

[現在の関孝和の墓石]

本堂での位牌参拝・焼香をされた参列者は,納骨堂に安置されている旧記念碑「関先生之墓」(寛政6年建立),境内のお墓(俗名:関新助孝和)・記念碑(昭和33年再建)及びその隣にある関孝和の兄,内山七兵衛永貞のお墓を順にお参りされました。

また,浄輪寺から徒歩15分程度の所にある牛込警察署の敷地内には,関孝和の兄である内山七兵衛永貞が住んでいた屋敷が当時あったことが判明していて,当日はその地点に標識も設置されていたので,この屋敷跡まで足を延ばされた参列者も大勢いました。

実は,関孝和の本姓は「内山」で,関孝和自身は兄の内山七兵衛永貞の家に居候していたとの説もあり,現在でも関孝和の足跡を解明する研究が進められています。なお,三百年忌法要の参列者用引き出物として用意された特別編集冊子『浄輪寺調査資料集』には,関孝和の本姓内山氏に関する浄輪寺過去帳の調査報告が克明に記されていて,今後の関孝和研究のためにもたいへん貴重な資料になるといわれています。

午後0時過ぎに三百年忌法要は無事に終了し,午後2時から開催される「関孝和先生三百年忌を機会に日本の数学力を考える会」の会場である,東京理科大学神楽坂キャンパス1号館17階記念講堂へ皆さん向かわれていきました。

『浄輪寺調査資料集』をご希望される方は東京理科大学近代科学資料館(TEL03-5228-8224,FAX03-5228-8116)まで。また,関孝和三百年祭記念事業に関しては日本数学会事務局(TEL03-3835-3483),もしくは和算研究所(TEL FAX03-3927-9330,火,木曜11時〜16時,FAXは24時間)までお問い合わせください。


[受付の様子] [控室での様子]
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[読経前の様子]
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*写真協力: 浄輪寺/ 柴原英雄

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